最近、当社へお越し下さる方々はじめ、30代、40代と若い職人さん達から、「関忠さんて創業何年ですか?」
また「良かったら、これまでの経緯を聞かせて欲しい」と度々言われます。
そう言えば私も60代を手前にして、バリバリに頑張り続けた30代から40代の頃に知り合い、多くを
ご指導下さった左官職人さん達は今やベテランの域に達し、今現場で大活躍している方々はその第二世代に
あたるのです。そんな皆様からすれば私は【関忠の社長】と言う肩書にしか過ぎません。

ならば、この機会に関忠のこれまでの経緯を書き残そうと考えました。
これまで、若い社員に多くを語ることなく。私の中では当然の記憶ではありましたが、時代は大きく変わり、
今、残して置かないと時代も文化も変化しており、正に風化して行く記憶なので書き残すことを決意致しました。
遠い先にでも皆様の何らかのお役に立てれば幸いです。

関忠の創業は1965年、先代は創業以前に奉公していた問屋が左官道具に重点を置いていた事もあり、
左官道具を軸に商売を始める事はごく自然な成り行きでした。
時は高度成長期、当時の金物店で鏝を専門に扱う人気店は老舗が多く、敷居(しきい)も高く、特に土物に拘る
傾向があり、モルタル工事に対して距離を置くことも少なくかった。

そこで先代は新規開拓を試みます。時代は高度成長期、大工に並ぶ左官道具は喉から手が出るほど欲しいと
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。特にモルタルに相性の良い半焼等は現場ではまだ少なく、関東を中心に
大ヒットとなりました。その頃から鍛冶屋との関係、そして常に在庫を置く流れが築かれて行きます。

そして、昭和経済は絶頂期を迎えます。それがバブルです。
まさに建設関連、大絶頂期!例え金物屋でさえ建築に携わるだけで好景気の波が押し寄せます。
そしてまさかの1989年(平成元年)バブル崩壊が始まります。
昭和の歴史、常識全てが崩壊したと言っても過言でもない大事件でした。大手ゼネコンの株価は総くずれ
倒産や廃業も相次ぎました。

そんな厳しい時代の中、1991年(平成3年)私は関忠に入社します。29歳でした。
朝から電話もFAXも鳴らない日々。先代の社長はイラつくばかり。同時、世間ではリストラ、コスト削減が
当然と言われ、それまで新幹線を利用していた出張は夜行バスとなり、可能な限りのコストカットでした。

また、これまでは左官道具中心でやって来てましたが、それでは売上を確保出来ないと、何でも扱うように
なりました。電動工具やブルーシート、土のう袋、シーリング剤…
正直どれも薄利多売でしか利益が出ない品々です。特にこれまで左官道具を中心に取引を展開していた
当社は当然取引先も多くなく現実的ではありませんでした。そこで更なる新規開拓が私達社員に求められます。
もう私も死に物狂いで営業訪問致しました。飛び込んだ先で素人用のコテを4丁程見せられ、
「当店はこれで充分」とも言われました。更に追い打ちを掛けたのがホームセンターの急拡大。
加え、バブル崩壊後、左官業を廃業する方々も増えてきました。当時を知る左官職人のお話だと、
「当時は宵越しの銭は残さなかった」それ程、腕一本で稼いでこれたのが当時の左官職人でした。

※単純に廃業が多くなったと言うよりも危機感を持った当時の若手職人が独立する際、社名に
「〇×左官」とは使わず「〇×工業」のように「左官壁だけではありませんよ!」「左官仕事全般に対応
しますよ!」そんな思いの再編が急増して行きます。


そんなある日の会議で、当時の上司が社長に提案したのが【左官・タイル工具専門卸】と言う肩書を
外してくれ!」と言う一言でした。私は当然びっくりしました。上司曰く、「新規開拓にあたって」
「この肩書が邪魔になる」結果、【総合金物卸】に変更されました。

しかし、私の中ではどうも納得が行きません。その頃既に一番の若手ながら新規開拓件数はトップとなり、
どの取引先にも「当社はコテが得意です。」「左官壁は減るだろうけど、モルタル・コンクリートは
無くなりません。」「彼らはコテを使ってくれます。」「私なら、そんな彼らの要望に対応出来ます。」
「皆様のお店に来たお客様のサポートは私がします!」そうやって開拓して来たからです…

そう思い悩んでいた時に偶然目にしたのが日東電工のCMでした。
そこで使われていた言葉が【ニッチトップ】でした。まさに目から鱗です。「これだ!」私は心の中で
叫びました。そして(何をすれば良いのか?)何日も考えました。

そして2000年初頭、広がりつつあるインターネットに目を付けます。当時、営業先ではご主人や店長さんに
新製品をご紹介します。運が良ければ、それは店員に伝わります。更にもっと運が良ければお客様に伝わります。

それをインターネットを使えば、先ずは職人さんに道具を知ってもらい、それを求めにお店に立ち寄ってもらう。
これまでは一方通行だった情報を逆流させることが出来る、それがインターネットだと考えました。

そこからはただ一生懸命突き進むだけです。インターネットは全くの素人、福井県の出張先でTVショッピングで
今では考えられない大きさのIBM社のパソコンを買い(もちろん会社持ちではありません自腹です)
そこからは独学のスタートです。
デジカメも買いました。インターネット関連の参考書も沢山買いました。

私のポリシーは【初心貫徹】。これは何をするにもとても重要です。
『やりきるんだ!』『何が何でもやりきるんだ!』
この強い想いが無いと何も出来ません。それが人生です。

また常に心がけ、社員にも教えていたのが、20代を一生懸命生きれば30代を乗り切れる。
更に30代を一生懸命生きれば40代を乗り切れる、常に自分と向き合い、苦労も肥やしと考え、
無駄もエネルギーに替える【力】。苦難にもメゲズ、人生に向き合う人は大勢います。
常に自分の人生は自分で開くと言う強い信念が無ければ何事も貫徹出来ません。
そうでない者達はただ年月が過ぎ去り、老いた先には他人を妬み、自分を不運と嘆く人生を過ごすばかりです。

普段は職場で通常業務に励み、ホームページ制作は帰宅後、夜間に行いました。
まさに寝るのも惜しんでの作業の始まりです。
当時のインターネット環境はダイヤルアップ接続からようやくブロードバンド接続がスタートした程度で
何と言っても『遅い!』だから4cm四方の画像を制作するにしても1cm単位で4等分にそれを組み合わせて
1枚の画像に作り替え、少しでも軽くすると言う裏技を使いもしました。

作って満足出来なかったら全てを消して、また作り直し、写真がブレていたらまた一から取り直し、
『妥協はしたくない!』ただ、それだけが支えでした。
そんなこんなで、ようやくホームページが完成すると人間って一人でも多くの人に見てもらいたくなるもんで、
先ずは友人達に紹介します。観た感想を聞くと真っ黒な画面から始まるので「海外のエロサイトと思って直ぐに
切った!」と言われました。

そんなあの日、私は息抜きも兼ね中学生時代に好きだったアイドルをキーワードに検索してみました。
どれも私のホームページ同様、数ページ程度で、正直あっさりと見終わってしまいます。
所がとあるサイトに辿り着いた時にびっくりさせられました。

見ても見ても終わらない!加えて私も知らなかった情報がドンドン出てきます。
結局、一日では終わらず全てを見終えるのに3日程掛かりました。心の中に満足感と幸福感が溢れました。

『これだ!』『ようし!こうなったら3年頑張ろう!』『3年間誰も観てくれなくてイイ!』
『その分、作り溜が出来る!』『そして初めて観た時に驚かしてやろう!』

写真にも拘りました。当時のインターネット通販では売れるのは電動工具・そしてレーザー測定器が定番で、
左官鏝なんか売れるハズもないと言うのが世間一般の常識でした。

そこで私は写真に徹底的に拘りました。今も他のサイトではカタログをスキャンしたりメーカーのホームページから
流用したりしてますが、当社では私自ら撮影し、丁寧に画像処理を行っております。

仕上・押え鏝のページを作ろうと思えば昼間の内に写真を撮り家に帰ってから加工・編集する。
当時は子供たちもまだ幼かったので本来なら家族団らんを過ごすハズの時間に私は一人部屋に閉じこもる日々でした。

初めて注文メールが来た時のことは今も忘れられません。油焼仕上鏝210mm1丁でした。
※当時は今のシステムもなく、お客様、自らメールを書き込むと言う仕組みです。
この古いやり方はその後も永く続きます。


また、出張中はパソコンを触ることが出来ませんので、
〖どんなコンテンツを作るれば良いか〗と思いを馳せていました。

3年の月日が流れた時、一つの奇跡が起こります。
それは2003年、当時人気のあったNHKのドキュメンタリー番組にて
「プロジェクトX 挑戦者たち 桂離宮 職人魂ここにあり ~空前の修復作戦~」が放送されたのです。

内容は歴史建造物 桂離宮を京都出身の大工そして左官が力を合わせ、修復すると言うドキュメンタリーでした。
これによって「左官」「職人魂」で検索する人が大きく増え、アクセス数が一気に伸びます。

当時、話題の掲示板「2ちゃんねる」でも【左官】の項目に「職人魂」のリンクが貼られていたり、
左官職人、タイル職人さんとのブログとも相好リンクを貼らして頂いたりとインターネットでの交流が
盛り上がりを見せ、本当にこれまでの苦労が実るのを実感しました。

新規の取引先もこの頃から更に増え始め、サイトに乗せる新商品を次々と在庫してくました。
特に一般の金物店をスケールアップした「プロショップ」との取引が増えて行きます。
無論、ネット通販も好調で社員一同驚愕するほどでした。

そして2005年、運命の出会いが訪れます。それは奇しくも三木金物まつりで内で開催されたイベント
「鏝鍛冶と左官の実演交流会」そこで左官の巨人、久住 章さんとの出会いでした。

正直、初めて見た時の印象は【普通のおじさん】だったのですが、話をすれば強烈に人を引き付ける
懐(ふところ)の深さがありました。誰に対しても分け隔てがなく、常に信念と情熱を持ち、熱い人が
第一印象でした。

このイベントの企画には当時、篠山市左官技術研究会理事長を務めていた
南 俊行さんの尽力も大きく、その後、今も永くお付き合いをさせて頂いております。
また浅原 雄三氏には同年京都にて開催された「京都左官共同組合主催 研修会と鏝の頒布会」にて大変お世話になり
ました。浅原氏は誰よりも先頭に立って鏝を手に取り、あの豪快な人柄で会場を一気に盛り上げて下さいました。

佐藤ひろゆき氏はその後、篠山講習会でもお会いし、多くの学ばせて頂きました。また佐藤氏はその後、まだ景気の
厳しさが残る中で国内が環境問題を取り上げるとNHKの出演を初め、大学でも公演し土壁の魅力、珪藻土の普及と
大いにご尽力下さったことはTVを見ながら本当に涙が出るほど嬉しかったです。
※当時は失われた10年とも呼ばれ、まだ不景気からの抜け道する見い出せなかった時代です。
それは左官業界にとっても厳しい時代でもありました。ただ唯一の救いはこの頃から温暖化の問題や地球環境問題が
騒がれ初め、大学や研究機関がこぞって動きだした頃でした。その後、佐藤氏はじめ、当時の左官業界や材料メーカーの
功績により、「珪藻土」等が広く世間に認知されて行きます。


そんな全てのきっかけはやはり久住さん初め、篠山市左官技術研究会皆様のご尽力に尽きると私は思います。
このままだと鏝鍛冶が衰退して行く。そうなれば左官職人も困ってしまう。
そうです。研究会の皆さんが目指したのは本来の左官技術を伝え守り、更に鏝鍛冶を知り、鏝鍛冶に勇気を与える。
意図しなかったことも有るだろうが、正直、この想いそしてこの行動が無ければ今の鏝鍛冶、そして関忠も当然、
いや左官業界もガラっと変わっていただろうと考えます。

バブル崩壊直後、鏝鍛冶は辛酸の日々を過ごしていました。ホームセンタールートにシフトとして生き残りを図る者、
低価格品に着手する者など、鍛冶屋の名が知られるようになった今日とは到底かけ離れた時代で、本当に
その後の皆さんの行動が鏝鍛冶に与えた【夢と勇気】は多大な功績と共に、私にとっても多大な恩人であることは
これからも変わりがありません。

昭和の高度成長、全国にも多くの左官鏝・道具を扱う問屋はおりました。
月日が流れると共にその多くが廃業等の道を選んで行きました。
当社も同様で本当に厳しい時期がありました。
やはりそれを救ってくれたのが左官職人さんとの出会いでした。今も有り難いことに多くの職人さんが
訪問してくれます。
また私も分からないことがあれば、積極的に皆さんにご指導を頂いております。
この出会いは私にとって本当に大きな財産となりました。
左官職人は私にとってアーティスト(ARTIST)【その道のプロフェッシナル】であり、クリエーター(CREATOR)
【創造的な仕事をする人】であると考える。単に職種がそうと言う単純なものではない。


そう言う私も自分自身を【金物販売員】とは思っていない。
アーティスト(ARTIST)とは言えなくとも、せめてクリエーター(CREATOR)でありたいと願っている。
そうでないとただ働くだけの人生何てつまらな過ぎる。

目指す先があり、その為に努力を惜しまず、その先に見える【夢】。
それに大小は無いと思う。もしかしたらプライドだけと人は言うかも知らないが、それが【拘り】だと思う。

昭和の好景気は職人の腕を大きく鈍らせた。対して今、多くの若者達は久住 章氏ら先人が切り開いた【道】を
新たに開拓し切り開こうとする第二世代(開拓者=Pioneer)の道をを突き進もうとしている。

今、50代、40代、30代、そして20代の皆さん、人それぞれ、戦う環境は違います。
都会や地方だけでも施主の感性も変わって来ます。何も奇抜な発想やアーティスティクである必要もなく、
ただ、自身の中に何を見つめ、何に拘りを持つかを探し求めて下さい。

私の人生は単にモノを販売していた時から、現場の声を聴けるようになった頃から大きく変わりました。
その経験が大きな肥やしとなり、「見る・聞く」は今も私の大切な教科書です。

この先、大きく世の中は変化して行くことでしょう。

、そろそろ私も第一線から退くべきかと考えております。
そのためにも若い子を育ててはおりますが、人生の逆境や本当の苦労を経験し、乗り越えてこそ本当の
一人前と思うのですが、如何せん先は見えていないのが実情です。
『やっぱり、もう少し頑張って行きます。』

                     株式会社 関忠 代表取締役 木田 宗浩(まさひろ)
株式会社 関忠(せきちゅう)
〒673-0403
兵庫県三木市末広3丁目4-33
TEL 0794-82-2318 FAX 0794-83-4110
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