ジャイアント台風:多数の資料から収集! 真正ジャイアント馬場伝。 |
☆プロレスはこの数十年、目まぐるしい変貌を遂げています。戦う者そして見る者も世代を代え、その歴史は逸話のごとく語られております。 しかし、私達にとって、プロレスと言うジャンルの存在に価値があり。今は多様化したニーズに適した多団体の存在に理由があるのだと 考えます。 当サイトの場合は「昭和プロレス」を中心に情報配信をさせて頂いておりますが、現状のプロレスを否定するつもりは毛頭 ございません。 むしろ、声を上げて応援いたします。武藤は今、心底苦しみながら現状打破に向け戦っているのでしょう。「K−1」は選手の 寿命を縮めながら今の栄光を確保しております。過去に馬場はレスラーの地位向上を切に願いました。レスラーは道具では無く今も 人々が憧れる「ヒーロー」です。体を張り、感動を生む。 主役は替わろうと私はいつまでもプロレスの味方です。 |
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力道山の死と日本プロレス崩壊 力道山が「日本プロレス協会」を設立するにあたり協会長に就任したのが右翼の超大物児玉義誉士雄 副会長には警察にもコネがあった東声会会長町井久之と山口組三代目田岡一雄の両氏。 そして暴力団と警察の関係を緩衝帯役となったのが大野伴睦であった。この微妙な関係は力道山の リング外での手腕で維持されていた。が不慮の死によって状況は一変、加えて大野伴睦の死によって 警察当局からの圧力によって三役が退任を余儀なくとされると力道山の遺した遺産は莫大な借金だけ となった。力道山亡き後、遠藤、吉村、芳の里は豊登を選手会会長に任命すると力道山遺族と密約を 行い「長男の義浩が成人すれば日本プロレスK.Kの取締役に就任を確約する。」と申し合わせをし 未亡人の退任を要請、変わって豊登が代表に就任するもその政権は1年7ヶ月と短命に終わる。 しかし、これら経緯によって力道山時代からのしがらみから手を切ることができた日プロは芳の里を代 表に据えエース馬場の元第2期黄金期を迎える。しかし金の亡者となった芳の里はその隆盛の時代を 維持するにはあまりにも無能すぎた。力道山時代から日プロ繁栄の柱であったテレビとの関係を後発 局であるNETに放映権をバラ売りすることで自ら崩壊することとなった。これまで二人三脚を取って来た 日本テレビでは馬場戦のみを放送、NETは猪木戦の放映件を獲得。後の馬場、猪木の離脱に繋がる。 |