BATTLE  OF CENTURY
2out of 3falls or a 60 minute time limit
過酷なリングで、人々に勇気を与えてくれた全てのレスラ−捧ぐ。

トップビデオファイルについて・・・  ザ・デストロイヤーVSミル・マスカラスの一戦。
本当に昭和の香りがする懐かしい試合です。人気者マスカラスと対する、この覆面対決はファンを沸かせ、
多くの地方興行でも開催されました。 日テレ「噂のチャンネル」で子供達の人気者となったデストロイヤー、
そして日プロ時代は仮面の悪魔とも言われたマスカラスをスターに仕上たデストロイヤー。その穏やかで
優しい人柄の反面、実力者であったのは承知の事実である。また、G馬場の独立を後押ししたのも彼であり
馬場も彼無きには全日本の誕生はなかった。
そして、馬場と共闘すると懐刀となり、彼を援護し時には護衛もした。それがロッカールームでのロビンソン
への暴行事件へと繋がる。 (彼が引退した後はその役割をテリーファンクが引き受ける。)



 昭和52年12月15日 東京 蔵前国技館 世界オ−プンタッグ選手権大会
 最終戦 ザ.ファンクス(1−0)T.シ−ク、A.Tブッチャ−

■全日本プロレス創立5周年記念として1977年末に開催された同シリーズはファンクス12点、ブッチャー組12点と
接戦の中、結末は最終戦へともつれ込んだ。セミファイナルで当時、インタータッグ王者だった韓国組を降した
馬場組は勝ち点13を挙げ、勝負の行方を待つ。
選手入場、ゴングが鳴らされる前からザ・ファンクが突進、ブッチャー組を攻め立てた!観客は大喝采!
開幕戦での遺恨がこの試合を更に盛り上げる。 誰も止められなかったブッチャー組をついに止めるのか!
期待に胸膨らむ。 テクニックだけでは無い、2人はラフにも強いのだ。 優位に見えた中、突然テリーが
悲鳴を上げた。 観客のざわめきも悲鳴に変わっていく。 「テリーの腕からダラダラと流れる血」
 「あっ!フォークだ!」「フォークです!」 倉持アナが悲鳴のような叫びを上げた!
助けに入ろうとするドリー、しかしレフェリーが静止する、その間もテリーは変わる変わる、2人によって腕を
切り刻まれていく。 やっと救出に成功したドリーは若手レスラーにテリーの手当てを指示。この時、見る者の
誰もがテリーはもう闘えないの考えた。リングではドリーが怒りをあらわに闘志むき出しでブッチャー&シークを
攻め立てた、ファンも応援で後押しする。しかし、やはり多勢に無勢、ついには2人ががりの攻撃に合い、まさに
絶体絶命のピンチ!そこへ腕にテーピングを巻いたテーリーがゆっくりとリングに上がって来た、一発!二発!
この瞬間、場内のボルテージは最高潮に達した!「行け!行け!テリー!」
一瞬、テリーの攻撃をかわすシークの凶器がレフェリーに突き刺さる!のどを押えながらジョー樋口はゴングを
要請する。 リングではなおも4人が激しい戦いだ、「カン!カン!カン!」ゴングが鳴り響く!
再び大きな歓声が沸きあがる。  そして、ザ・ファンクの優勝を讃えるフィナーレ、目に涙を一杯浮べテリーは
[皆さんの声援のおかげです。]と、言わんばかりに、私達ファンに何度も何度も深々と、頭をさげた・・・
それをファンも涙した、まさに感動の幕切れとなった。

この年の最高試合賞を獲得すると共に、テリ−・ファンクは日本において絶大な人気を勝ち取ることになった
史上類を見ない名勝負の一番。勝敗は反則勝ちではあったが開幕戦での遺恨やシーズンを通して、地上最悪
コンビが見せた強烈な破壊力がよりドラマチックに仕上ていった。そして、最終戦でのフォ−ク攻撃とまさに
新しいプロレスの幕開け的な一戦が誕生する。 ちなみに、このフォークによる腕への凶器攻撃たが、実は
ブッチャ−自身、来日前の一戦で五寸釘を改良した凶器で対戦相手の腕へ同様の攻撃をするなど付箋は
あった。とは言え、自国では荒っぽい試合をこなし、エンタ−ティメントを知り尽くしたテリ−が相手なだけに
完成された名勝負なのは間違いない。

更にこの一戦を機に[テリー世代]とも言われる新たなファン層が誕生。小・中・高や女性ファンまでも取り込み
力道山・馬場インター時代に続く第三次プロレスブームの幕開けとも言われた。
翌年からはテリーVSブッチャー戦が超ドル箱試合となって行く、両者の戦いは壮絶さを増し、流血は当たり前、
フォークに加え五寸釘など、ブッチャーの凶器攻撃も過激さを増していった。
大阪大会では両者反則による試合終了後に、ブッチャーが割れたビールンでテリーの胸を刺すと言う凶行に出た。
さすがの過激さにTV放送はその場面の放送を中止、静止画放送すると言う異例のアクシデントも誕生している。

テリ−の引退試合におけるファンの熱狂ぶりは、今日のプロレスファンの想像を越えたもので、大勢のファンや、
若い女の子達によって組織されたファンクラブによるチアリーディングが涙でテリーの入場を待ちわびる。
また、馬場の好意によって、引退試合を記念し、妻や娘たちも会場に招待されていた。
スピニングトーホールドのテーマに乗ってテリーが入場する、紙テープが舞う、もうリングを埋め尽くすほどだ。
娘さんたちの目にも大粒の涙が溢れ出して来た。 もう館内はテリーコールで一杯だ!

当時のテリーは自国ではすでに悪役レスラーの位置にいた。そんな父がまさか、この異国の地で大スターであるとは
夢にも思わなかっただろう。 父の言葉が真実であり、その感動が涙となった。
また、家族を招待したG馬場は手厚いもてなしで彼らを出迎えている。
馬場による、この好意はブロディー亡き後に開催されたメモリアル大会で、ブロディーの遺族にも行われている。
日本でスターになったブロディーは「いつか家族皆を日本連れて行き、俺の勇姿を見せて挙げたい」と、家族に
語っており、馬場は死後ではあるが、彼の夢を実現させる。
まさか、これほどまでにファンに愛されいるとは。そしてスタッフ大切にされているは・・・
その感激の想いはブロディーの妻が執筆した手記に記載されている。




 昭和49年12月2日 鹿児島県体育館 NWA世界ヘビ−級選手権試合
 ジャイアント馬場(2−1)ジャックブリスコ

■ 力道山の後を受け生涯をプロレスに捧げたジャイアント馬場。 彼の歴史に
 おいて、外すことのできない金字塔が「世界」の称号を我が物にしたこの一戦
 であろう。この49年とはライバル A猪木が対S・小林、大木戦を実現しており
 プロレス戦線が大きく傾きかけていた時代でもあった。タイプ的には猪木派と
 されたチャンピオンJ・ブリスコに馬場は余裕の試合運びを見せる。 3日後に
 行われた防衛戦では自らが持つPWFとの2冠を掛けて防衛に成功。しかし、
 9日豊橋での一戦では逆転負けを喫しタイトルを失う。 永き防衛の夢を思い
 願ったファンの思いは幻となったが、この一戦以降、翌年の対大木戦やオ−ブン
 選手権の開催と馬場流の猛反撃が展開されて行く。全日本、隆盛の時である。

 その後、ブリスコは鶴田とUNヘビーにて激闘。
 そして新日本プロレスに渡り、彼の日本でのキャリアは終焉を迎えた。


 東洋の巨人 ジャイアント馬場 Vs 地獄の料理人 ハンス・シュミット

 ■レスラ−、G馬場の生涯において最大のタ−ニングポイントとなったのが入門後、僅か
 1年3ケ月目(S36.7.1)で迎えた渡米のチャンスだろう。 グレ−ト東郷に引き連れられ全米
 サ−キットを開始する。 日本人レスラ−の殆どか田吾作スタイルで悪役を演じるなか
 G馬場は確実に自分のスタイルを定着させ実力でメ−ンエベンタ−の道を駆け上って行く。
 劇画「ジャイアント台風」でもこのあたりの物語が最大の山場となって語られている。
 (多分に誇張もあるが)実力者ハンス。シュミットとの一戦でも「SHOHEI.BABA」に地元
 ファンは大きな声援を送っている。 この海外遠征での収入が当時の力道山率いる日本
 プロレス、外国人レスラ−招聘の多大な資金源として利用されたのは承知の事実であり、
 対する雄A.猪木が最後まで成し得なかった海外における評価の根源がこの時代に築かれた
 と思われる。 レスラ−として人間として馬場はこの時すでに世界を手中にしていたのかも
 知れない。 今のイチロ−がメジャ−で活躍するのと同じで、戦後を支えたのが力道山ならば
 世界と対等に戦う姿をファンに見せ付けたのがジャイアト馬場なのかも知れない。 今日、
 日本人対決が主軸となりつつある日本プロレス。海外のレスラ−にとって日本が主要な
 マ−ケットとして認知させるためにも世界に通用する彼のようなプロモ−タ−は必要だと
 思われる。 
(ビテオについて)入門時とは見違えるほどの体格となった姿が印象的。
 裸足であること、足技が少なく空手?チョップが武器として多用されている。



 昭和45年8月4日 東京体育館 インタ−ナショナルタッグ級選手権試合
 G馬場、A猪木(2−0)ザ。ファンクス

■ 水と油。ライバルetc両雄を語る言葉は言かか無い。 日本プロレスを支えたエ−スと
野望に燃える若獅子。 二人は時代を背に二本の道を歩み続ける。 互いにTVと言う
巨大なバックボ−ンを受けリ−ダ−として君臨する。 商業的に採算が見込める両雄は
マスコミの期待どうりの熱戦を市場に提供し続けたのだ。 しかし、その一方でお茶の間
プロレスが変貌をどけ、多団体時代へと突入して行く。 彼らが築き上げたプロレスは彼らを
必要としなくなりつつなった。 最強のタッグチ−ムと称された「BI砲」は同期でありながら
馬場がエ−スでリ−ダ−格であると言う扱いに、度々猪木の不満が噴出したチ−ムでも
あった。この試合から1年と4ヶ月後同じザ。ファンクス相手に(1−2)で敗退しタイトルを失う。
■ この年の前年には馬場、猪木双方からNWA世界タイトルを死守したドリ−だが、この
シリ−ズにおいて猪木のみの挑戦を受け、馬場に対してはインタ−への挑戦でシングルを
決行。当時の日本プロレス社長芳の里に父シニアがシリ−ズへの参加条件として直談判した
ためとされている。猪木に対しては前回のノ−フォ−ル戦を不名誉と考え、馬場には敬意を
表してと言うのが真相のようだ。



 昭和54年8月26日 日本武道館 「夢のオ−ルスタ−戦」 第6試合
 J鶴田。藤波辰巳、Mマスカラス(1−0)T戸口、M斉藤、高千穂明久

■ 今となっては「馬場VS猪木戦」より実現の可能性がありながら幻と終わった
「鶴田VS藤波戦」が惜しまれてならない。 両者において、意見は色々とあろうが
私の知る限り、日本人レスラ−の中でその上手さではトップ5に位置すると思う。
強さを競わなくとも両雄が会いまみれる姿を一度は見てかった。
当時の両者には強さに加え華麗なレスリングが出来ると言う独特のスタイルが
完成しており、ファンを魅了できるファイトが出来たのではないだろうか?
団体の壁によってファンの期待が黙殺される当時の現実こそが、後の業界衰退の
引き金とも取れる。  この試合のレフェリングは色々と物議をかもしている
ミスタ−高橋が担当。最終戦「馬場、猪木VSブッチャ−、シン戦」のレフェリングは
ジヨ−樋口、ミスタ−高橋の初コンビと言うもの今となっては意味深な組み合わせ
と言える。この一戦は当日の全カ−ド中、ファンがもっとも楽しんで見れた組み合わ
せとなった。 

<プロレス誌アーカイブ>
「ゴング」1973年1月号 定価280円
(内容)
日本、国際、新日本、全日本時代と、まさに
転換期での発刊。グラビアは海外5大ビックマッチを
特集。国内は日本フロレス「インター選手権シリーズ」を
特集するがエース不在が精彩を欠けさせる。
前年末に入団発表したJ鶴田がグラビアに登場、
(当時のTV視聴率)日本:14.7 全日本:10.5 
国際:9.2 新日本(単発放映)9.8とある。
ちなみに、当時 日本プロレスは坂口征二、国際は
S小林がエース格とされた。
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