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SEMI FINAL 2out of 3falls or a 60 minute time limit |
過酷なリングで、人々に勇気を与えてくれた全てのレスラ−捧ぐ。 |
■トップビデオファイルについて・・・ S43年6月27日(蔵前国技館)チャンピオンB・ブラジルVS挑戦者G・馬場 「黒い魔人」、「ココバット」。当時、馬場にとって最強の敵と恐れられた男 それが「ボボ・ブラジル」の存在である。ファンならずとも当時の少年達が 一度は耳にしたのが「鉄の爪エリック」と彼の名だ。同月25日(名古屋) で屈辱の敗北をきし復活インタ−タイトルを始めて奪われた馬場はまさに 背水の陣で望んだ一戦、伝説と呼ばれた切り札32文の3連発で起死回生 の王座奪回に成功する。圧勝と言うより接戦での勝利に当時を知るファンは 心底ブラクパワ−の脅威を実感する。 優れた人望を持ち合わせ25年以上 トップファイタ−を勤め上げたブラジルは黒人の地位向上にも貢献した歴史 的選手の一人と言える。 PS 馬場のセコンドに立つのは吉村とカ−ル・ゴッチ。 |
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昭和47年7月9日 大阪府立体育会館 IWA世界ヘビ−級選手権試合 ストロング小林(2−1)ラッシャ−木村 ■ 初代IWAチャンピンはB・ロビンソン。その国際プロレスの至宝IWAを守り続けた両雄 による初の日本人対決。 当時エ−スだった小林は翌年、突然のフリ−宣言。その後も 国際のリングに立つが、その年の12月12日A・猪木の持つNWFに挑戦し、軍門に下る。 その後、両雄の対決は吉村社長の熱望により「夢のオ−ルスタ−戦」で再現される。 この時は木村が一矢を報い戦績を1勝2敗とする。しかし、両雄の晩年は吉村社長(故人) の願いも虚しく、A・猪木が仕掛けた巧妙な手口により猪木の引き立て役としてのみ利用 される。そして小林はリングを引退。木村は国際のエ−スとして猪木に提出した挑戦 状を足蹴にされなど新日本のリングでは終始引き立て役として利用される。全日本に 上がりマイクパファ−マンスで晩年、久しぶりの人気を獲得する。レスラ−としては一流 の実力を持ちながらも、スタ−としは不器用である事の不運を感じる。 1981年8月、国際プロレスは惜しまれつつ消滅する。 |
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昭和44年8月13日 大阪府立体育館 インタ−ナショナルタッグ選手権試合 G馬場、A猪木(2−1)Cリソウスキ−、DTブル−ザ− ■ 2日前の11日、札幌中島スポ−ツセンタ−にてBI砲誕生以来19戦目にして初の敗北。 「世紀の最悪コンビ」と呼ばれ一週間の滞在で6戦「日本プロレス4大タイトル」に挑戦した 両雄に日本プロレス側の期待の大きさが伺える。期待に答えるべく両雄は見事インタ− タックを奪取。翌12日には同会場でブル−ザ−がインタ−を賭けた馬場と歴史的一戦。 (2−1で馬場の勝利) そしてこの大阪決戦である。1本目は4者入り乱れての場外乱闘で 引き分け、この時猪木が流血。2本目は開始早々に猪木が標的にされダウン寸前。 ぎりぎりのところで馬場とタッチ!16文、32文をクラッシャ−に決め最後は猪木の卍で 決着。馬場、1500回目となる節目の一戦を勝利で飾りその人気を不動のものとして行く。 ちなみに左の雑誌は当時発売されたベ−スボ−ルマガジン社の増刊号。定価100円とは さすがに時代を感じさせる。 |
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昭和38年12月4日 大阪府立体育館 インタ−ナショナル選手権試合 力道山(1−1)ザ・デストロイヤ− ■ 日本プロレス界の父、力道山。いまや過去の者となりつつある彼こそ、死後も永遠と 亡霊のごとく日本プロレス界に影響を与え続けた存在と言っても過言では無い。 日プロの崩壊。そこには彼が残した「豪欲、裏切り、ねたみ、憎しみ」が暗躍していた。 独裁者のごとく史上たるいまれな大国を築き、そのトップに君臨すると、多くの野心家を 拒むこと無く受け入れ吸収して行く。その大国では無欲こそ大敵であり、権力(金)こそが 全ての戦場と化していた。 彼だからこそ今のプロレスの基礎が築けたのだろうか? 彼無しでは今の日本のマ−ケットは誕生しなかったのだろうか?多くのメディアを敵に まわしてもエンタ−ティメントを貫き通した今日のプロレス。他のスポ−ツ競技が プロとしの活路に苦しむ中、悠々と打倒「プロ野球」をウソぶけるプロレス界こそ今も 残る彼の魂の叫びに聞こえてならない。 PS:左の写真は当日のパンフレットである。今見ても実にカッコイイ! |
<プロレス誌アーカイブ> 「プロレス」1976年3月号 定価400円 (内容)グラビア、特集記事と大々的に「猪木VS Wルスカ」 戦が特集される。全日本はインタータッグを賭け「極悪コンビ」 ブルーザー、リソウスキー戦で対抗するが勝敗は歴然、新日本 に大きく水をあけられることとなった。他にジャンボ試練の十番 勝負の記事が掲載。 国際プロレスと全日本が前年の「オープン 選手権」開催からの微妙な関係が伺え知れる記事が多数あり 新日本VS全日・国際の構図が見えはじめた年と言える。 |