【左官】の歴史は神社・仏閣のように日本の建築には欠かせない伝統工法です。
しかし、最盛期の1975年頃の30万人に対して2014年では3万人と左官職人は激減して行きます。
要因は明確で、和式から洋式住宅へ、クロスの普及など人々のライフスタイルが変り初めて来たことです。
しかし、それは個々の生活を見れば残念ながら当然の変化と言えざる終えません。

【本当に左官は減ったのか?】〇〇左官と屋号に左官を付ける職人さんは確かに減っております。
特に顕著だったのが1990年頃のバブル崩壊の頃からでした。〇〇左官から〇〇技工や〇〇工業等、
変化を遂げる時代に合わせ、かれらは培った左官の技術を駆使し、多様に対応出来るよう「左官」だけに
留まらない生き方を選んでいるのです。
その技術はハウスメーカーの基礎工事であったり、外構や土木工事、型枠、内外装と多岐に渡ります。
駐車場やアプローチ、そして庭園等や土間に特化した業種では大型店舗には欠かせない技術者として
珍重されております。。
【左官ではないが鏝(こて)は使う。】そんな技術者達が左官の分野を離れ、新たな境地で活躍し、弟子を
育て、その弟子が次に独立を繰り返すと、道具として鏝は使うが左官屋ではないと言う考えになって行きます。
【カリスマ左官職人の誕生】バブル崩壊で建築業界は大きく様変わりして行く。設計業界もしかりである。
そんな中、一部の設計士らによる建築に新たな試みがなされて行く。それは近代建築に左官の技術を取り込むと
言う手法。更に2000年頃に入ると大手の大学も環境問題に取り組み始め、日本の伝統建築が見直され始めると、
多くの左官職人が講師として招かれ始て行く。
そして2005年ついにカリスマ左官、久住 章氏(1948〜)によって「左官技術の伝承」が高々と唱えられると
それは勉強会として全国的に開催されるようになり、失われつつあった業界に大きな息吹きを芽生えさせて行きます。

現在、その想いは久住氏の弟子であり息子である久住 有生(1972〜)に売れ継がれ、彼らが携わり現場はもはや
左官の枠を超え、一つのアートとして建築業界からも高い評価を受けている。
そして今、彼らに追随する新たな若手が急激に成長しており、全国へ飛び回っている。

更に近年では各地で左官技術を駆使した古民家の再生プロジェクトが広がりつつある、主にカフェへの転用が多いようだが、
近頃の若い人たちには、それがまたオシャレにでインスタ映えするらしい。

【決して現状に満足はしておりません。】もっと在庫を確保したいが、鏝(こて)はその一丁ごとに全てが手作りです。種類もあればサイズもある、多くの
鍛冶屋(かじや)さんにご協力頂いてはおりますが、時に高齢化の問題もある、これだけの在庫を確保するのも至難な事もご理解下さい。

兵庫県三木市に置ける金物の卸とは戦後の高度成長期と共に三木市を発展へと導いた地場産業でした。
しかしバブルの崩壊以降は急激に衰退、更にインターネットの普及が始まると次に販路であった
金物店までもが衰退に危機に追いやられ、我々金物卸売業は益々苦戦に強いられて行きました。

そこで当社は独自の改革を行いました。先ず、社員の若返りと育成です。
当社が得意とする(左官業・タイル業)特に左官業は日本の大工と共に古くから日本の建築を支えて
来た歴史があります。 私たち自身もその歴史を知ることから始まり、現場を知る、現場の職人さん
とも話を聞く。今では年数回の左官勉強会に参加するようになりました。
そこでは常に多くの発見があり、若手社員達にとっても高い知識向上に繋がっております。
それらは(やる気)へと導き、今では社員の一人一人が自主的に新製品の開発を行っております。

左官業・タイル業は建築の一旦を担う重要な職種です。
そして時代と共に常に進化を遂げております。

人はふと一つの時代だけに立ち止まってしまうと「あの頃は良かった」「今は険しい」と嘆きがち
ですが、歴史を知れば人が一人生きている時代が如何に短いかが分かってきます。

先輩や上司、部下や若手。男だから女だから、その些細な考えもこの人類の歴史を考えれば小さな
事にすぎません。わが社ではSDGsの観点からモノ作り+人作り=歴史作りと考えております。
これから多くの皆様に喜びと夢を与える製品開発目指し。
左官・タイルのこのニッチな分野で、私たちに関わる多くの皆さんと共にリーディングカンパニーを
目指して行きます。
                             株式会社 関忠 代表取締役社長
                                     木田 宗浩
兵庫県三木市末広3丁4−33
電話0794−82−2318
FAX0794−83−4110
【営業日】平日
【休業日】土・日・祝
【営業時間】AM8:30〜PM5:30
1965年(昭和40年)兵庫県三木市末広にて創業。
創業者は関 忠行(せきただゆき)
2008年インターネットサイト「職人魂」スタート
2010年木田宗浩(きだまさひろ)代表取締役に就任。
社員:10名
資本金10,000,000円
年商2.7億円
業種:金物卸売業
主な取引先:金物店、建材店、プロショップetc

三木商工会議所会員
三木金物卸組合会員理事
三木親和金物協同組合理事長
三木ライオンズクラブメンバー
三木金物の歴史は古く。全国各地の鍛冶屋の歴史と
同様、刀鍛冶も多く活躍しておりましたが、秀吉に
よって三木城や寺も街も焼き払い払われました。
秀吉の復興事業が新しい三木づくりの原点となります。
それは三木復興のために全国から職人が集められ
職人達には税を免除されたのです。これによって
職人達は一気に活気付く。無論、鍛冶屋達にも多くの
要望が集まってくる鑿(のみ)鋸(のこ)鉋(かんな)
現在の鏝(こて)鍛冶も多くは元を辿れば刃物鍛冶です。
鍛冶屋の元へ直接大工や左官職人が側で時には
厳しく道具製作に注文を付ける訳ですから、三木の道具
鍛冶はメキメキと腕を挙げて行きます。

また、三木金物の物流も1750年代から他県からの
材料の調達と三木金物の販売を手掛ける仲買人が
誕生。明治維新に入ると西洋の新しい鋼材が導入され
製品は更なる飛躍を遂げて行きます。

更にこの田舎街には小規模ながら農業も盛んなのが
幸いし、他の地域とは異なり、バブル期でも地価が
大きく高騰することもなく、多くの鍛冶屋が兼業農家として
現代にも存在することが出来たのです。

これによって、今も多くの利器(りき)工具を製作する
町工場や鍛冶屋が存在する全国的にも貴重な
金物のまち、三木市が誕生したのです。

鏝に至っては2018年、ほぼ100%三木産と言っても
過言ではないでしょう。

現在、物流の多くがインターネット、ホームセンター等
大手が主役となってはおりますが、町工場や鍛冶屋で
生産される商品の数には限界があり、なかなか
大手の物流には乗りません。

そこにこそ、我々のメリットがあるのです。

本当に良いモノは待ってでも手に入れたい。
妥協の出来ない現場では人一人に拘りがあり、
時にはオリジナルも要望される。

よりニッチに!私達はそこに未来を見出しています。

                  代表 木田 宗浩
※山陽自動車道[三木・小野]
インター出口に到着したら三木方面に進んで下さい。
※175号線に入ります。
そのまま真っ直ぐ、明石方面を進んで
下さい。一つ目の信号も直進です。
※信号を越え、少し走ると「餃子の王将」の
看板と共に【三木市内】方面の看板が
見えます。二つ目の信号を左折して下さい。
途中、細い道がありますが、間違えず
交差点で左折して下さい。
※左折しましたら、また直線です。
途中、左手に「ミドリ電気」、右手に
「小僧寿し」が見えたりします。
この道は信号の無い交差点も多く
「関忠」はもうすぐ、なのでのんびりと
安全運転でお越し下さい。
※この通りに入って始めての信号です。
やはり直進です。
ちなみに手前に見える黄色いお店は
お酒屋さんです。
※二つ目の信号に到着しました。
ここで右折です。右折レーンがあります
ので、そちらに移動して下さい。
※一見、舗道の様に見える細い道なので
ご注意下さい。左右が一方通行です。
※左側に細道が見えます。
2つ目を左折して下さい。
ちなみにこの道は一方通行です。
お帰りの際は、少し迂回するように
なりますが、反対側に逆方向行きの
一方通行路があります。
※通りはこんな感じです。
狭い道ではありますが、一方通行では
ありません。対向車もありますので
ご注意下さい。
※通りに入り300mほどで、
右手に関忠が見えます。到着です。
山陽道出口から5分程度です。
休日は車の出入りも少ないので
お好きな所へお止め下さい。

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