ジャイアント馬場ファンサイト「ジャイアント台風」 誰もが知っている。でも誰も知らない馬場がここにいる。 |
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(お詫び)当サイトのタイトル「ジャイアント台風」は 講談社より発刊されている同誌とは一切、関係 ありません。故人を偲ぶ上で最適と思い流用させ て頂きました。よって本サイトの全責任はサイト 管理者がおうものとします。 [全日本プロレス公式サイト] |
■少年時代の馬場には沢山の逸話がある。 家業の青果商を手伝い、毎朝、欠かさず朝の5時に起き リヤカーを10キロ先の朝市に運んでいたとか、線路上に仁王立ちになり列車を止めたとか、良くも 悪くも、いたずらもするが、優しく・他人おもいな普通の少年だった。 しかし、ただ一つ非凡では なかったのが、その恵まれた肉体を生かしたスポーツにあった。 町の祭りで模様される子供5人抜き 相撲では負けたことがなく、行司から「やめてくれ。」と、言われるほど強かった。中学では野球と卓球で 中越地区で優勝を経験している。 高校に入ると大関 栃錦が自宅に訪れるなど宮城野部屋・春日野 部屋が目を着けていた。 在学中に巨人入りのきっかけとなる野球では実際は高校2年からスタート、 直ぐにエースで4番となると一試合脱三振18の記録をマーク。連戦連勝を繰り返し新潟地区の優勝 候補と言われるまでに大活躍を収めた。 しかし予選1回戦で(0−1)敗退、3年を目指した矢先、 支度金20万円、初任給1万2千円を条件に念願の巨人軍からスカウトされた。 昭和30年1月20日 この日ついに、球界史上最年少16歳のプロ野球選手が誕生した。 PS.初任給1万2千円はほぼ当時のサラリーマンの平均月収に匹敵する。 |
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■二軍スタートとなった馬場は2年目に入ると12勝1敗で最優秀投手となる。3年目も13勝2敗と 2年連続で最優秀投手賞を獲得。そしてこの年、初の一軍公式戦を経験する。それが左の映像に残る、 8回裏から敗戦処理登板となった対阪神である。(馬場は3者凡退で退いた) 当時のスポーツ解説では「2階から投げ下ろすような剛速球」と、いまでは背の高い投手によく使われる 解説が始めて使われている。 スピードガンの無い時代だったが140キロは軽く超えていただろうとも 言われている。 その後、初先発も経験するが、それはリーグ優勝が決まった翌日の対中日戦で5回を 一失点に押えるが敗戦投手となった。(同試合は中日のエースだった杉下の200勝試合記念試合) 結果的にはシーズンを通し、主力扱いではなく、都合の良い選手としての扱いだった。 シーズン終了後、脳腫瘍を患うが奇跡的に復帰。 4年目も2軍で最優秀投手となるが一軍での 活躍はなかった・・・ (補足)当時の巨人軍監督水原は「プロ野球選手も大学出でなければダメ」が持論であり、エリート 指向であったのも馬場一軍昇格に災いしたと言われている。更に水原・千葉が四国出身、当時の 現役だった川上、二軍監督だった武宮が熊本出身であり、四国・九州勢が派閥を利かせ、唯一 北陸出身だった馬場は先輩からの「引き」もなく、今日のプロ野球界では当たり前とも言われる 『飼い殺し』状態、つまり「手強い敵になるなら懐にしまいこんでしまえ」の犠牲者となった。 これら行為は馬場にとっても遺恨となり、後に全日のエースとなるも巨人軍とは袂を別ち、度重なる OB会への参加要請にも断る要因となる。共に当時は日本テレビの繋がりがあっただけに、馬場の 決意は尋常ではなかったと推測できる。 読売巨人軍を解雇された経歴を彼の挫折と解釈する者は多い。 だがむしろ、彼にとっては 一つの試練となり、後の人生を大きく飛躍させることとなった、貴重なターニングポイントだと言える。 高校生だった彼をスカウトした谷口コーチは彼の持つ、素質そして才能に魅了された。 しかし、派閥を優遇した水原監督の元で2軍ながら、3年連続最優秀投手の栄冠に輝くも1軍昇格 には繋がらず不遇の時代を経験する。そして34年、馬場は自由契約となった。 翌年、大洋ホエールズへ移籍となった谷口五郎氏はかねてから目を着けていた馬場に再度 チャンスを与える。 が、不慮の事故が彼の野球人生に終止符を打つこととなった。 この時点で家族からは帰宅要請がなされる。 しかし彼は「あと、5年!自分の力を試したい!」と 強く嘆願する。 これら経緯は後の渡米時にも、前座に甘んじること無くメインエベンターを目指し 続けると言う彼の不屈の行動に集約される。 ■プロ野球時代での一軍での成績は3試合に出場 0勝1敗 投球回数7 被安打5 奪三振3 失点1 防御率1.28 背番号は59 後に全日本のエースとなった馬場は断り続けていた読売巨人軍のOB会に参加。 プロ野球界のスーパースター、王・長嶋らと対し、収入面で大きく上回っていたことを誇りとし 後に「収入面でもプロ野球に負けるな」と、プロレス界を大いに奮い立たせた。 |
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■昭和35年4月11日東京・日本橋にあった「プロレス・センター」で報道陣を集め馬場、猪木の入門が 正式発表された。 力道山は馬場が巨人軍在籍時代から興味を抱き、度々プロ野球担当記者に情報 収集を行っていた。 そしてついに馬場のプロ野球断念を知ると力道山は旅先ながら直ぐに動き、側近を 使者とし、馬場の元へ差し伸べた。 しかし人生の地獄を見てきた馬場は「自分の人生は自分の力で切り開く。」 「全ては力道山先生と直にお話を伺い、決めさせて頂きます。」と、言い切った。 後の彼が築きあげた大きな財産とも言えるプロモーターとしての交渉力は意外とこの頃から身に 付けていたのかも知れない。 そんな馬場に力道山は大きく期待を膨らませた。 馬場、当時22歳。その後、力道山から科せられたのは容赦のない厳しい修行の日々だった。 厳しい特訓は体格は大きくても筋肉質ではない肉体を徐々にプロレスラーの肉体へと変貌させた。 入門から5カ月後の9月30日東京・台東体育館でデビュー戦を行う。相手は田中米太郎。 田中は当時、喧嘩殺法を得意としていた33歳のベテラン選手。馬場は5分15秒股裂きで勝利を飾る。 因みに田中は後に新日本のレフリーとなる。 |
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■馬場を大きく飛躍させた経緯に、サーキットと呼ばれる渡米での経験が挙げられる。 約700試合以上を消化したと言われる、その内容は日本人レスラーとして初のMSG登場や 世界3大タイトル挑戦、それは力道山すら羨む華々しいものだった。中でもロスではWWAチャンピ オン、デストロイヤーにも勝利している。(1−0・三本勝負のためタイトル移動無し) 猪木よりも3年早く渡米のチャンスを得た馬場をヒイキと呼ぶ声もあるが力道山はそのキップを 容易に渡すことは無かった。 その試練こそが、第3回Wリーグ開幕戦で行われたミスターX(ビル・ミラー)戦と 言われている。 試合は4分21秒逆エビでの敗退となるが同シリーズに参戦していた日系レス ラーの大御所グレート東郷から「この男なら絵になる。」 「海外でも充分に通用する。」 そんなお墨付きを頂き、晴れて勝ち取った栄誉でもあった。 |
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■昭和36年7月1日、晴れて渡米のチャンスを得た馬場の境地は未知なる不安と期待に 胸躍らせていたことだろう。 しかし師となる東郷のマネージメントは容赦ないものだった。 パスポートを取り上げられ、自由となる資金も極、僅かとなれば、むしろ悲惨とも言える。 それを試練と言えば美しいが真相は馬場のギャラ大半を東郷がプールし、それが一流外国人 レスラー招致の資金として流用されていた。 ともあれ、悲惨な状況にも音を上げることも 無かった馬場は「若手三羽ガラス」として期待され、同期渡米中だった鈴木幸雄(後の マンモス鈴木)とも大きく水をあけることとなる。 ハンセン・ブッチャーらの自伝に書かれている馬場のプロモーターとしての評価はこの時期に 習得したと考えられる。 彼ら同様、未知の地で生活を確保させると言うこと。いかに契約が 重要で信頼を裏切らないことが、この世界で重要かと言うことを・・・ とは言え、この時期、馬場は巨人時代の汚名から脱出、国内では無く全米を制覇したのだ。 (23歳〜26歳)計3度の渡米を経験、それは全日設立後も継続される。 |
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■力道山死後も、日プロ幹部は馬場をすぐに呼び戻そうとはせず当時、力動のタックパートナー だった豊登にエースの座まかせる。しかし手抜き試合やボイコット、はてはデストロイヤーから奪取 したWWAタイトルの海外防衛戦を拒むなどトラブルが続出。 馬場は第6回Wリーグ(S36)から帰国参戦、5勝1敗1分)ながら迫力ある大型ファイトが人気を呼び、 ついに昭和40年、復活インターの座についた瞬間、馬場は名実ともに日本の大エースに登りつめる。 エースの座を追われた豊登は自ら犯した策略を糾弾され辞表を表明する。(幹部の裏工作による) 第8回Wリーグを初制覇し、力道山時代を上回るプロレス人気を背に「ジャインアイト馬場」の激闘は 日本を舞台に展開される。 馬場&豊登が所持したアジアタックは馬場&吉村に受け継がれ、 12度目の防衛戦時ダブルタイトル戦でインタータッグを勝ち取り返上される。 |
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■インターの歴史、それはプロレスの歴史と言っても過言ではない。 渡米時に築いた馬場の人脈は海外のスターを続々と日本のリングに登場させた。 それは日本が世界に通用するマーケットであることを証明させた時代でもあった。 力道山の好敵手ルーテーズをも馬場は41年に撃破している。(当時テーズ49歳・新日参戦時は 58歳) 初の武道館進出を大成功に導いたF.Vエリック戦には当時の少年達も熱狂した。(私も) 大阪球場を興奮のるつぼに叩き込んだNWA世界Cジン・キニスキー戦では実力では間違いなく 勝っていた。初来日のクラッシャーの破壊力は全盛期のハンセンを凌ぐ凄さだった。 往年そしてまだ見ぬ強豪に日本中が沸いていた。 馬場、27歳から34歳の6年と10ヶ月まさに 絶頂期に築かれた不滅の金字塔である。 この頃、馬場は自らの人生設計で40歳での引退を描いていた。 Ps.その40代はオープン選手権開催頃であり、時代は猪木イズムが絶対勢力を付けており、鶴田の 成長等、結果的には自らの犠牲を強いることで、団体の権威を誇示、惜しまれつつも、その希望は 叶わないものとなって行く。 晩年、そして還暦と、リングから見詰める天井のライトに生きがいを 見出したと語る、馬場さんは人としても境地にいたと考える。 しかし44年NETの日プロ放映開始、46年猪木の馬場への挑戦状と時代は馬場に安息の日を 与えることはしなかった。 PS・劇画「ジャイアント台風」は昭和44年鰹ュ年画報社より発行される。 当時を知るプロレス関係者の多くが、その力の差を実感していた。 「闘えば猪木は馬場の相手ではない。」 馬場の攻撃は重く、鋭い。 対する猪木はすばしっこいのが取り得だが、捕まれば馬場が圧倒的優位が 当時のマスコミ論であった。 しかし、舞台がTVとなれば別。 興行以上に視聴率が左右していた。 |
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■馬場亡き近年も猪木は「私の方が強かった。」と、平然と嘘吹く。 若いファンは晩年の馬場を思い浮かべ、しかるべきと考える。 記録にある戦績はデビュー翌年の昭和36年5月富山で初対決(10分羽交い絞め)で馬場が ギブアップを奪っている。 過去の事と言うファンも多いと思うが、当時の過去を持ち出しデビュー 試合の経緯や海外遠征を馬場のエコヒイキと言うのはむしろ猪木側ではないだろうか? その後も両者は36年に馬場の6連勝、(37年は馬場海外遠征)38年の10連勝と馬場の一方的 勝利とある。勿論大木金太郎とも戦った。負けたこともあったが5勝6分2敗(1反則負)と相手にして いない。39年以降馬場は吉村と2戦(1勝1分)した以外、日本人とは対決していない。 この頃の彼は名実ともに日本のエース格となっている。 猪木は39年に初の海外遠征に旅立つ。2年と8ヶ月間のサーキットに於いて主にカンザス・ テネシー・テキサスと渡り歩き、幾度とリングネームを変えている。 もっぱらタッグマッチが主で、シングルではメインを張ることはなかった。 猪木23歳、馬場28歳。 両者には年齢だけでは測り知れない多くの試練の差があったと伺える。 今日、馬場・猪木時代を振り返り、ある記者が嘆いた言葉に、雄弁かつ金品の贈与に惜しみなかった 猪木を優位に記事を書いていたと言う。猪木=雑草・馬場=エリートはまさにその最たるもので、 鳴り物入りとは言え巨人軍で挫折を味わった馬場。 対する猪木は若干17歳と言う若さでヒーロー力道山にスカウトされ入門。 力道山亡き後も豊登の 甘い誘い(馬場の引き立て役はいやだろう。)にさっさと日プロに見切りをつけるなど到底下積みと 言う言葉は似使わない。 しかし、猪木は大きなチャンスを掴む。昭和44年NETが日本プロレスの 定期放送を開始するとともに猪木をメインに据えることとした。 そして同年、第11回Wリーグ初優勝。46年にはNETの後ろ盾により創設されたUNチャンピオンに 着くとその2ヶ月後には第13回Wリーグに優勝した馬場に挑戦状を提出すると言う暴挙に出た。 当時すでに日本テレビは馬場、NETは猪木のみの放映権をもち、両者が同じ画面に映ることすら 許されなかった(それでギャランティーが発生していた。 勿論、バカな幹部連中が馬場・猪木を バラ売りするなんてことをしなければこんなことは起こらなかった。) 実現するはずも無い一戦を知っての言動は間違い無かった。 困惑した日プロ幹部は(一部は知って いた)猪木を除名処分とするが、待ってましたとばかり猪木は新日本プロレスを旗揚げする。 そしてつにい日本テレビも日プロの放映を中止。日テレ・三菱電気の後押しを受けた馬場も日プロを 離脱、全日本旗揚げを決意する。 馬場VS猪木こそ日テレVSテレ朝の代理戦争なのだ。 年間4億近いギャランティー(当時)がl両者をよりヒーアップさせて行く。 馬場34歳・猪木29歳。 その経歴にはあまりにもへだたりが有りすぎていたが時代は風雲児・猪木に加担する。 プロモーターとしての手腕が時には馬場を大きく見せ、また時には彼の足を引っ張ることとなった。 この頃の両者は興行主として対決している。NWA世界戦・異種格闘技どれもが完成された興行と 言えるが猪木サイドのもたらすインパクトは若い世代の多く共感を得ていた。 それこそがストロングスタイルと言う偶像であった。 晩年、Mr高橋の著書に外国人レスラーの強さには日本人では叶わないと記されている。そう言えば 無名だったブッチャーが初来日の初戦で馬場から金星を上げ、最後にはインター挑戦権と言う、日本に おけるメインエベンターの地位を確保したのは、その実力がゆえかも知れない。 ハンセン・ブロディーもしかりと言える。 そこから紐解けば馬場VS猪木の格付けは両者の海外遠征に おける成果が問われるのでは無いだろうか? 猪木がMSG登場となった日、ファンの多くが当時の WWWFチャンピオンB.Sマルチノとの対戦を熱望した。が実績が無い猪木は拒否されている。 海外における彼の実績は大金を払いアリと戦ったゲテモノであり。客を呼べる選手ではない。ましてや 恩義を果す価値もない男なのである。 猪木が馬場に挑戦状を叩き付けた日、当時小学生だった私はその対戦に胸踊らされた。 近いうちにきっと実現し、間違いなく馬場が勝つと確信していたがその時が訪れることは無かった。 |
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(私的解釈、馬場VS猪木論) 絶頂期であった馬場に対し、猪木は必要なまでの挑発を行っている。 当時は無謀と思われていた行為も、次世代の感性からすれば、革新的意義があり、次第に若い世代を 中心に猪木信者が加速する。 加えてメディアも追随し、両者による日本人対決が力動VS木村戦の 再来を彷彿させていく。 しかし、馬場にとっては米国の経験からプロレスとは、受身であり、対戦者を 活かしながら、闘うことが前提であり、自らの強さだけを誇示する猪木の(国内だけをマーケットとする) スタイルには到底、合い反するものだった。 当時の実情を象徴するのが、対ビル・ロビンソンかと推測 します。 彼はゴッチ同様、蛇の穴(アニメ、ダイガーマスクの虎の穴はこれから引用)出身です。 同時期、 馬場自ら、全日本に注入したのはファンクス王国が誇る、見せる受身の強さでした。 ロビンソンはその後の不遇から、馬場に対し、恩義を感じてないようですが、馬場も彼の強さや求心力の 無さを軽視しております。 馬場さんよる、プロレス論は万人よりも強くて当たり前。加えて受けて立つ、 のが前提です。事実、対ロビンソンのPWF戦では受ける馬場が顕著ですが、その後のシングルやタッグ戦 では、チョップなどのシンプルなプロレス技に翻弄されるロビンソンの伺えます。 推測ですが、空気を 読めないロビンソンに対する、力による報復とも思えます。事実、結果的にはロビンソンのパフォーマンスは 世界で受け入れられず。 と、言うよりもレスラー仲間よりも総スカンとなって行く。実は今の猪木も同様の 立場にいるのはファンだけが知っていない。(残念!) |
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5年ぶりの日本人対決(馬場VS吉村)の一戦は昭和43年2月16日・後楽園ホールで行われた。 折からの大雪に空港が閉鎖され、外国人レスラーが北海道・千歳空港に送られため急遽、 メインとして組まれた試合だった。ファンは大いに沸いたと言う。 ちなみにレフリングは猪木が担当。 その後、”火の玉小僧”吉村は旧日プロ幹部に愛想を尽かし 近大にもどる。 |
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その容姿から力道山に「昔見た映画のインディアンみたいだ。」 「だからお前のリングネームは 死神酋長で行くぞ。」と言われ必死に拒んだ猪木寛至(アントニオ猪木)。 結局は当時、猪木が媚びていた豊登に嘆願し却下してもらう。 一時はプロレス引退も考えたほど、猪木にとって辛い思い出。 馬場、海外遠征中のことである。 |
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