「梶原 薫 物語」

明治初年、初代 梶原 栄太郎は長年の修行を終え(日本剃刀製作)を重きに置いた
「梶原製作所」を開業する。職人として探究心旺盛な栄太郎はその後、鏝製作にも着手
大正時代を迎える頃には栄太郎の元には多くの修行者が集り、その妥協を許さない豪快な
生き様から生み出される品々を人々は「神の業」として高い賞賛を与えた。 しかし順風万班と
思われた彼の人生を狂わせたのは戦火に突き進む激動の時代に訪れる。多くの弟子達が戦
地に送られ中国戦線では愛する我が子(重次)をも戦地へと見送ることとなった・・・

死線を乗り越え戦火より戻った重次は父の元、更なる修行に励むが時代は彼らに安息の日々を
与えはしなかった・・・2度目の徴兵である。 幼少から父の背を見、跡目を継ぐことに信念を見出
した重次は再び奇跡の生還を果たす。 そして運命の満州徴兵を前にし、重次は子宝に恵まれ
まだ見ぬ我が子を残し人生最後となる戦地へと向かって行った・・・そして終戦。
栄太郎は重次の帰還を見ることもなくこの世を去り、 重次の息子(薫)も父の顔すら知らず
少年期を迎えていた。 「今だ消息分からず」シベリア抑留の報だけが僅かな支えとなっていた・・

終戦から3年後、重次は奇跡の帰還を果たす、実に兵役13年にも及ぶ死線との戦いであった。
父の死を知り、息子の成長を知り・・・「梶原製作所」の財産であった工作機械は鎚の一丁で
すら軍に没収され正にゼロからの再スタートとなっていた・・・

苦境に立たされるほど重次は強くそして自分に厳しく戦い貫いた。 そこには父への誇りと
「梶原製作所」の名を残すと言う強い信念が伺える。
幸い大きな空襲を免れた兵庫県三木市は日本復興を目指し再び鍛冶屋街として繁栄の時を
迎えようとしていた。 需要があっても道具も材料も無い重次は日工として多くの鍛冶屋を
回った。家族はそんな重次の日当を日々の生活の糧にしていたが、それでも重次はそれを
道具の購入にあてて行く・・・
次第に道具は揃い始める。 しかし、材量購入まではほど遠い・・・重次は他の鍛冶屋が残した
鋼の端切れを分けてもらいそこから「目地鏝」・「笹刃鏝」等小物を製作する。

「天下の梶原も地に落ちた。」人々の中傷にも耳をかさず重次は自らの再起を誓っていた・・・

薫 小学生3年の夏・・・父の背に立つ。 当時、彼が出来たのはうちわであおぐだけだったと
言う。真夏の鍛造は暑さとの戦いと言える。塩をなめ眩む目頭を押さえる父にまだ小学校3年生
だった薫少年は必死で風を送ったと言う。 ここから親子鷹の二人三脚が始まって行く。
「鍛冶屋に学などいらぬ!」学校から帰宅すると薫はすぐに父の元へ寄った。

僅か10歳にして薫少年は自らの人生を把握していたと言う・・・「鍛冶屋になる。」と
[巨人・大鵬・玉子焼] そんな時代に背を向け、ただ一心不乱に父の後を追った・・・

その後「梶原製作所」は不死鳥のように再生を果たす。父 重次は鏝組合からも会長として迎え
入られる。しかし晩年に至ってもプレス銅材が主流になるのを断固拒否し重次・薫親子は鍛造に
誰よりも最後まで執着した。 当時を振り返り薫の妻は「夏場の鍛造はまさに地獄でした」と言う。

昭和から平成に年号を変える頃、人々は口を揃え最後の匠を讃えるようになった・・・
鏝鍛冶としては3名の名が上げられた・・・
何れもが梶原の元で修行を重ねた者達だった。近年、梶原薫を残し二人の名工は高齢から
現役を退いた。 今の時代も鏝と戦い続ける鍛冶屋は少なくない。しかし、梶原家ほど3代に
渡り戦い貫いた者はどこにもいない。
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